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千葉地方裁判所 昭和54年(ワ)405号 判決 1987年5月06日

原告 粟生淳

<ほか二名>

右三名訴訟代理人弁護士 福田光宏

同 田村徹

被告 医療法人長生会

右代表者理事 武田昭信

右訴訟代理人弁護士 小川彰

同 井口壯太郎

同 加藤紘

同 島崎克美

同 池下浩司

同 宮原清貴

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告粟生淳に対し金三八〇〇万五四一五円、原告粟生トミ子に対し金三六九六万三三二五円、原告粟生千代子に対し金二〇〇万円及び右各金員に対する昭和五四年一〇月三日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  被告

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告粟生淳は亡粟生浩一(以下「浩一」という。)の父、同粟生トミ子は母、同粟生千代子は姉である。

(二) 被告は、その肩書地において浜野病院を経営している医療法人である。

2  本件医療事故

(一) 浩一は、昭和五三年三月九日二〇時二〇分ころ、交通事故により左足大腿骨を骨折し、直ちに救急車で浜野病院に運ばれ入院した。当夜は応急処置が施され、浩一は相当の痛みを訴えていたが、骨折症状の外に異常はなく元気であった。

(二) 翌三月一〇日一三時三〇分ころから、同病院手術室で医師武田昭信、同武田三代、同長谷部正晴ら(以下、右各医師を「医師昭信」、「医師三代」、「医師長谷部」といい、右三名を総称して「本件医師ら」という。)によって、浩一に対して全身麻酔を施しキュンチャー(金属棒)による骨髄内固定手術(以下「本件手術」という。)が行われたところ、浩一は肺水腫による呼吸不全により翌日の同月一一日二時一五分に死亡した。

(三) 本件手術及び死亡までの経過

三月一〇日

一三時四五分 麻酔開始(一分間につき(以下同じ。)フローセン〇・五パーセント、笑気四リットル、酸素二・五リットル)。サクシン投与、気管内挿管完了。

一四時〇〇分 手術開始。

一四時五〇分 サクシン投与。

一五時〇〇分 サクシンの効きが悪く、胸が硬いようだったので、サクシン一アンプルを追加投与、足に強いファシキュレイション(けいれん)発生。

一五時一〇分 心停止(ショック状態)。手術・麻酔中止。

一五時一二分 心拍再開。心電図装着。

一五時三〇分 血圧測定、一二〇/七〇(最大/最小。以下同じ。)。脈拍一二〇前後(一分間、以下同じ。)。

一五時四〇分 麻酔・手術再開、麻酔はフローセン〇・五パーセント、笑気三リットル、酸素三リットルに変更。

手術中の血液の色は普通、頻脈となり脈拍は一二〇から一八〇。

一七時〇〇分 体温の上昇が認められるが測定せず。手術終了。麻酔終了。酸素六リットル。

一七時三〇分 麻酔を覚醒している間に排痰が多くなり、痰が黄色の胆汁様の泡を含んだ粘りのあるものに変化した。肺水腫と判断。

一七時四〇分 麻酔覚醒。

三月一一日

二時一五分 死亡。

三時一五分 直腸温四二度。

(四) 輸液・輸血量及びその投与時間

(1) 入院後手術開始前まで

ハルトマン 五〇〇(ミリリットル、以下同じ。)

(2) 手術開始から心停止まで

血液 一〇〇〇

(3) 心停止から肺水腫発症まで

メイロン 四〇

血液 二〇〇×2

ハルトマン 五〇〇×2

生理食塩水 二〇〇

アミサリン 六

クリニザルツ 五〇〇

クリニタミン 五〇〇

(4) 肺水腫発症から死亡まで

ハルトマン 五〇〇

五パーセントブドウ糖 五〇〇

カルニゲン 一〇

メイロン 四〇

クリニザルツ 五〇〇

イノバン 一〇

(5) 以上総輸液・輸血量 五七〇六

3  浩一の死亡原因たる肺水腫の発症原因

(一) 主位的主張

麻酔中の不適正換気により低酸素症がもたらされ、心停止が起きた。その後の麻酔・手術の再開により、身体状況の悪化が加速され、これに手術開始後からの過剰輸液・輸血が競合して肺水腫を生起した。

(二) 予備的主張

本件手術中、浩一に悪性過高熱が発生し、これが肺水腫の原因となった。

4  本件医師らの過失

(一) 主位的主張

本件医師らには、次の(1)ないし(6)の各過失があり、これらの過失が競合した結果、浩一に肺水腫を発症せしめたものである。

(1) 心停止原因究明義務違反

全身麻酔による手術中の患者に心停止が起きた場合には、手術を施行する医師としては、麻酔薬の過剰投与の有無を初めとして、その原因を究明すべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、原因を究明する何らの措置をも講じなかった。

(2) 麻酔・手術打切り義務違反

手術中患者に心停止が起きた場合には、手術を施行する医師としては、直ちに手術を打ち切り、生命・身体に危険を及ぼす可能性がある麻酔及び手術を行わないようにすべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、その後約一時間二〇分にわたり麻酔及び手術を行った。

(3) 体温測定義務違反

手術を施行する医師としては、手術中の患者の全身状態を常に把握しておくため体温を測定すべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、体温上昇の傾向が生じた場合にすら体温測定の措置を講じなかった。

(4) 冷却措置義務違反

手術中の患者の休温が上昇した場合、手術を施行する医師としては、その原因を問わず直ちに体温を下降させる冷却措置を講ずべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、身体冷却措置を講じなかった。

(5) 手術中の急速輸液・輸血回避義務違反

手術を施行する医師としては、手術中の短時間に急速な輸液・輸血をすれば肺水腫になることを予測し、かかる急速輸液・輸血を避けるべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、前記2(四)のとおり手術開始後から肺水腫発症に至るまでの三時間四五分の間に、手術中の最大出血七〇〇ミリリットルを差し引いても、合計二九四六ミリリットルの輸液・輸血をした。

(6) 心停止後の急速輸液・輸血回避義務違反

手術中患者に心停止が起きた場合、手術を施行する医師としては、以後急速な輸液・輸血をすれば心機能低下による肺水腫を生起することを予測し、かかる急速な輸液・輸血を避けるべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、前記2(四)のとおり心停止後肺水腫発症までの二時間二〇分の間に合計二六四六ミリリットルの輸液・輸血をした。

(二) 予備的主張(悪性過高熱に対する適切治療義務違反)

仮に、浩一の肺水腫の発症原因が悪性過高熱であるとしても、本件医療事故当時、悪性過高熱についての診断及び治療の方法については相当広範囲に識られていたのであるから、手術を施行する医師としては、右知識を身につけ、かつ、右知識に基づき適切な治療をすべき注意義務があるのに、本件医師らはこれを怠り、右知識を欠き又は適切な治療をしなかった。

5  被告の責任

(一) 不法行為責任

本件医師らは被告の経営する浜野病院に勤務する医師であり、本件手術はその職務の執行として施行されたものであるところ、本件医療事故は本件医師らの過失に基づいて発生したのであるから、被告は本件医師らの使用者として、これにより原告らに生じた損害につき賠償すべき責任を負う。

(二) 債務不履行責任

浜野病院を経営する被告と浩一とは、浩一の左大腿骨骨折治療を目的とする準委任契約を締結した。本件医師らは、右契約に基づき被告の履行補助者として本件手術の施行に当たったものであるから、被告は本件医療事故により原告らに生じた損害につき債務不履行に基づく賠償責任を負う。

6  損害

(一) 浩一の逸失利益及び慰藉料

(1) 浩一の逸失利益

浩一は、死亡当時、高校二年生(一七歳)で、昭和五四年三月高校を卒業して同年四月に就職予定であったから、本件医療事故がなければ一八歳から六七歳まで就労し、その間、毎年高卒男子労働者の平均賃金を受けることができたはずである。そこで、右期間中に得られたはずの収入の現価を、昭和五二年度賃金センサス第一巻第一表の平均賃金年金二七三万一七〇〇円を基礎とし、平均賃金の上昇率を年五パーセントとし、生活費として五割を控除し、ライプニッツ方式により中間利息を控除する方法で求めると、次のとおり金六六九二万六六五〇円となる。

2731700×49×0.5=66926650

(2) 浩一の慰謝料

浩一の慰謝料は金三〇〇万円とするのが相当である。

(3) 相続

原告粟生淳及び同粟生トミ子は右(1)及び(2)の各損害賠償請求権を各二分の一の割合で相続した。

(二) 原告ら固有の慰藉料

原告ら固有の慰謝料は、それぞれ各金二〇〇万円とするのが相当である。

(三) 葬儀費用

原告粟生淳は浩一の葬儀費用として金五〇万円を支出した。

(四) 治療費

原告粟生淳は浩一の治療費として金五四万二〇九〇円を支払った。

7  よって、原告らは被告に対し、不法行為ないし債務不履行に基づく損害賠償として、原告粟生淳において金三八〇〇万五四一五円、同粟生トミ子において金三六九六万三三二五円、同粟生千代子において金二〇〇万円及び右各金員に対する本件訴状送達の日の翌日である昭和五四年一〇月三日から各完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び同2の(一)ないし(三)の各事実は認める。

2  同2の(四)の事実のうち、(1)についてハルトマン五〇〇であることは否認する(ハルトマンは一〇〇〇使用している。)、(2)について血液一〇〇〇であることは否認する(血液は一二〇〇使用しており、外にハルトマン五〇〇を使用している。)、(3)及び(4)については、両期間は連続していて、その区分は不明確かつ不可能であり、両期間を通じた輸液・輸血量中ハルトマン五〇〇、生理用食塩水一〇〇、クリニタミン五〇〇、クリニザルツ五〇〇、血液二〇〇につき否認し、その余は認める(但し、ハルトマン、クリニザルツ、ブドウ糖はキャリヤ・ウォーターとして使用しているので、使用量は各八〇パーセント程度であり、血液二〇〇も全部は使用していない。)。

3  同3のうち(一)の事実は否認し、(二)の事実は認める。

4  同4及び5の各主張は争う。

5  同6のうち(一)(3)は争う、その余の事実は知らない。

三  被告の主張

1  浩一の死亡原因たる肺水腫の発症原因について

浩一の肺水腫の原因は悪性過高熱である。

(一) 浩一には次の事実が認められた。

(1) サクシン投与後、異常な筋強直を起こした。

(2) 手術中、浩一には体温の上昇が見られた。ちなみに、浩一死亡後一時間を経過した昭和五三年三月一一日三時一五分ころの同人の直腸温は四二度であった。

(3) ソーダーライムが青色を示すなどアシドーシスが認められた。

(4) 手術中、頻脈(一二〇ないし一八〇)が見られた。

(5) 心停止後、尿は赤茶色を示すなどミオグロビン尿症が見られた。

(6) 手術前血清CPKの値が二五二あった。

(二) 悪性過高熱の設定基準

悪性過高熱の認定基準については、次のような諸見解がある。

(1) 森健次郎「悪性高熱症」日本臨床麻酔学会誌(昭和五七年四月、以下「森・悪性高熱症」という。)は、頻脈、発熱及びアシドーシスを三大主徴候とする。

(2) 盛生倫夫「悪性高熱症」日本臨床麻酔学会誌(昭和六〇年七月、以下「盛生・悪性高熱症」という。)は、(ア)麻酔中四〇度以上の体温の上昇、(イ)一五分間に〇・五度以上又は一時間に二度以上の体温の上昇((ア)、(イ)未満の発熱は亜型)、(ウ)その他の症状として、筋強直、ミオグロビン尿症、原因不明の頻脈、CPK値の上昇等のいくつかを認めるとする。

(3) 鑑定人長野政雄の鑑定結果(以下「長野鑑定」という。)によれば、筋強直、体温の上昇及びアシドーシスをその徴候としている。

浩一の症状は前記(一)のとおりであり、右(1)ないし(3)のいずれの見解によっても悪性過高熱と認められる。

(三) 悪性過高熱について

(1) 悪性過高熱については、その認定基準について諸見解があることは前述のとおりであり、その発生原因も未解明であって、フローセン、メトキシフルレン等の吸入麻酔剤、筋弛緩剤サクシンが引金となって発症する薬物遺伝学的疾患であり、右薬物に対して異常に反応する特異体質者につき発生すると考えられている。

その発生率については、幼児では一万五〇〇〇例に一例、成人では五万例に一例ともいわれており、死亡率は六〇ないし七〇パーセントに達する難病である。

(2) 現在のところ、悪性過高熱に対する有効な治療法は確立されておらず、早期発見・早期治療により死亡率を下げているに止まる。

盛生・悪性高熱症によれば、ダントロレンの使用が有効とされるが、ダントロレン静注用は本件医療事故後の時点においても「近日発売予定」とされ、本件医療事故当時は医師の入手しうる状態にはなかった。

(3) 悪性過高熱を予見する方法として、CPKの測定、筋肉生検などが考えられているが、右検査で陰性の結果が出ても異常反応を呈する場合が認められ、決定的なものはない。

(4) 悪性過高熱については、外国では昭和三五年に発生報告があり、我が国では、本件医療事故前まで合計約四〇例しか専門学会誌等に報告されていなかった。昭和五二年までに「麻酔」誌に報告された悪性過高熱の症例は全て麻酔専門医の扱った症例として紹介されている。悪性過高熱をめぐる麻酔学会の取組みを略記すると、次のとおりである。

(ア) 昭和五〇年神戸地裁判決(昭和四五年(ワ)第一三〇六号同五〇年五月三〇日判決)を契機として、一部研究者、大学レベルで本格的研究が開始された。

(イ) 昭和五四年七月のシンポジュームにおいて右(ア)の研究成果が公式に発表された。

(ウ) 昭和五七年度の「日本臨床麻酔学会誌」の第一回日本臨床麻酔学会総会リフレッシャーコース論文として、森・悪性高熱症が掲載された。

(エ) 昭和六〇年度の「日本臨床麻酔学会誌」の教育講演論文として、盛生・悪性高熱症が掲載された。

2  悪性過高熱に対する適切治療義務違反の主張について

(一) 悪性過高熱の予見、診断及び治療等の医学知識は、本件医療事故当時(昭和五三年三月)においては、国立大学附属病院の麻酔科専門医等の大学レベルにあっては格別、一般の麻酔医には周知されていなかった。したがって、本件医師らにおいて悪性過高熱の発生に関する予見可能性がなかった。

(二) 仮に、悪性過高熱の存在が一般の麻酔医に周知されていたとしても、前記1(三)のとおり悪性過高熱の確実な予見方法、有効な治療方法は本件医療事故当時なかったのであるから、本件医師らに結果回避可能性はなかった。

3  原告ら主張の各過失(請求原因4(一)の(1)ないし(6))について

本件医療事故において浩一が肺水腫となった原因は、前記1のとおり悪性過高熱の発症である。原告らが請求原因4(一)の(1)ないし(6)で主張する各過失は、浩一の肺水腫発症の原因を、心停止を惹起せしめた麻酔中の不適性換気による低酸素症、麻酔・手術の再開による身体状況の悪化及び過剰輸液・輸血の競合であるとの前提(請求原因3(一))に立つものであり、いずれも浩一の死亡との間に因果関係はない。

仮に、肺水腫の原因が原告ら主張のとおりであるとしても、次のとおり本件医師らに過失はない。

(一) 心停止原因究明義務及び麻酔・手術打切り義務違反について

本件手術時においては、心停止の原因は麻酔が浅かったことによる迷走神経反射と考えられた(現時点では、サクシンとフローセンの併用による徐脈であり、このときが悪性過高熱の始期であったと事後的判断が可能である。)。心停止後、医師昭信が浩一の胸部を叩いたところ、心拍が再開し、心停止から心拍再開までの間は約二分であった。その後、サクシンの投与を中止し、約二〇ないし三〇分間手術を中断したまま様子をみたところ、血圧一二〇/七〇、赤血球数五三一万、ハマトクリット四三・七パーセントであり、脱血症状もなく、ただ心拍数が一二〇前後で頻脈であった。かかる状態の下で手術の続行を決めた理由は、既に骨髄を一一ミリメートルまでボーリングしてあったので、それ以上のボーリングは思い止まり一一ミリメートルのキュンチャーを急いで打ち込んで手術を完了させても、手術を中止する場合に比し時間の差が殆どなかったこと、手術を中止した場合それまでの手術で既に人工的開放骨折を作ったことになるので再手術まで非常に長期間を置く必要があること、再手術により仮関節を作ってしまう可能性があり治癒に悪影響を与えること、これらに対比して、心拍数は多いものの血圧が正常を維持していたので手術の続行は可能であり、かつ、そのほうがベターであると判断したためである。したがって、手術の続行は止むを得ないものであった。そして、手術の続行に当たっては、心不全に対する処置として、貧血状態になかったので、心臓に負担をかけないよう、輸血と輸液を中止し、強心剤セジラニット、利尿剤ラシックス、血液の酸化防止剤メイロンを静脈注射し、麻酔については酸素濃度を上げるべくフローセン〇・五パーセント、笑気三リットル、酸素三リットルとして強制換気をした。

(二) 体温測定義務違反について

本件手術のようなキュンチャーによる骨髄内固定手術の場合、温度計による体温の測定をせず、患者の体温変化を触手によって把握するのが一般であるから、本件医師らにこの点についての懈怠はない。

(三) 冷却措置義務違反について

冷却措置として医学界で考えられているものとしては、クーリングマット、氷のう、氷水、アルコールガーゼで全身を覆い扇風機などを使用する方法、氷水浴、冷却のための浣腸、胃内冷却、膀胱洗浄、部分的人工心肺を使用する方法、輸液を冷却する方法等であり、体温が三八度くらいまで下がれば一応冷却を中止し、経過を観察し、再び体温上昇が始まれば冷却操作を再開するというものであるが、右のような冷却措置を麻酔・手術中の患者や手術直後の体力の疲労の激しい患者に対して施すことは、逆に死亡の可能性が高いため臨床上は不可能に近い。

(四) 輸液について

輸液の使用量等については、前記二2の認否のとおりである。すなわち、

(1) 入院から心停止まで

ハルトマン 一五〇〇

(2) 心停止から死亡まで

メイロン 四〇×2

アミサリン 六

生理食塩水 一〇〇

カルニゲン 一〇

イノバン 一〇

(以上は投与量の明確なもので合計二〇六)

ハルトマン、五パーセントブドウ糖、クリニザルツ等投与量の不明確なもの概算で合計一六〇〇

で、合計は約三三〇六ミリリットルである。

輸液中で特に原告らが問題としているのは、ハルトマン、ブドウ糖、クリニザルツの量と思われるが、これらはいずれもイノバン等のキャリア・ウォーターとして使用されているのであるから、右数量の使用は必要不可欠なものである。

また、右の合計量は、長野鑑定の前提となった投与量に合致し、過剰輸液とはいえない。

輸液等の補液の量は、骨折の手術の場合(1)骨折による出血量、(2)手術による出血量、(3)その他の事情を基礎として推計していくため、概算しか把握できないのが実状であり、その輸液の量の適正を確保するためCVP(中心静脈圧)を測定しているところ、その数値は適正であって異常はない。

したがって、輸液は適正であって、原告ら主張の過剰輸液は認められない。

次に、輸血の量については、前記二2の認否のとおり合計約一四〇〇であるが、浩一の年令、体位等に徴すれば本件手術を行うに当たり多量とはいえない。通常、本件同様の手術をするに当たっては、一五〇〇ないし二〇〇〇の輸血が行われており、輸血についても適正であって過剰とはいえない。

第三証拠《省略》

理由

一1  請求原因1(当事者)及び2(本件医療事故)のうち(一)ないし(三)(浩一の入院、本件医師らによる本件手術の実施、浩一が肺水腫による呼吸不全により死亡したこと、本件手術及び右死亡までの経過)の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

2  本件手術中における浩一に対する輸液・輸血の量及びその投与時間について検討しておくと、《証拠省略》を総合すれば、次の(一)ないし(四)記載の量の輸液・輸血が行われたと認められる。

(一)  手術開始前

ハルトマン 五〇〇

(二)  手術開始から心停止まで

血液 一二〇〇

ハルトマン 五〇〇

(三)  心停止から本件医師らが肺水腫発症と判断するまで(なお、被告は、心停止から肺水腫発症までの期間と、肺水腫発症から死亡までの期間は連続しており明確に区分し得ないと主張するが、本件医師らが肺水腫発症と判断した時点(一七時三〇分)については当事者間に争いがなく、原告らは右時点を捉えて肺水腫発症と主張している趣旨であることが明らかなので、右時点において区分することとする。)

メイロン 四〇

血液 二〇〇

(四)  本件医師らが肺水腫発症と判断してから死亡まで

ハルトマン 一〇〇〇

五パーセントブドウ糖 五〇〇

カルニゲン 一〇

メイロン 四〇

イノバン 一〇

クリニザルツ 五〇〇

生理食塩水 二〇〇

アミサリン 六

二  肺水腫の発症原因について

浩一が肺水腫による呼吸不全で死亡したことは、前記のとおりであるが、原告らは、肺水腫の発症原因は、麻酔中の不適正換気により低酸素症がもたらされ、心停止が起き、その後の麻酔・手術の再開により身体状況の悪化が加速され、これに手術開始後からの過剰輸液・輸血が競合したものと主張するので検討する。

1  《証拠省略》(木内政寛作成の鑑定書。以下「木内鑑定」という。)によれば、浩一の肺水腫の原因につき、ほぼ原告らの主張に副う所見がある。すなわち、木内鑑定は、肺水腫の原因として(一)骨折による脂肪栓塞、(二)骨折部周囲の筋組織の挫滅による挫滅症候群、(三)不適当な医療行為及び(四)それらの競合等があり得るとしたうえで、本件においては浩一の全身状態や病理組織学的検査の結果(脂肪栓塞が肺の一部にみられるにすぎず、腎にも高度な変化が見られない等。)からして、右(一)及び(二)が肺水腫の原因とは考え難いとする。そして、診療録の記載が不十分のため麻酔前・麻酔中・麻酔後の経過や症状が全く不明であるが、麻酔中に低酸素状態等の何らかの原因によりショック状態となったか又はショック前状態となったところに手術による出血等がありショック状態となったとも推定され、このような状態で急速な輸液を行ったとすれば肺水腫が急速に増悪される可能性があるとの見解を示し、かつ、軽度の脂肪栓塞及び筋の挫滅等があって種々の侵襲に対して耐性がない状態となったところに麻酔・手術が行われたためにショックの発現を見たという多数の因子の競合ということも考えられるとして、前記(三)ないし(四)が肺水腫発症の一因である旨、推断している。証人木内政寛の証言(第一、二回)も同旨である。

しかし、木内鑑定は、右証言によっても認められるとおり、浩一の肺水腫の発症原因としては外傷と医療行為しか考えられないことを前提にして、外傷に基づく前記(一)及び(二)が否定されることから医療行為たる麻酔及び手術に肺水腫発症の要因があると推論したにすぎないものであり、かつ、その推論を支える「麻酔中の低酸素状態」、「手術による出血」及び「急速な輸液」等の事実は、いずれも具体的で明確な資料に基づいて認定したものではなく、不完全な資料に基づいて認定したものではなく、不完全な資料に基づく推測の域を出ないものであることが明らかである。したがって、木内鑑定における「麻酔手術などが肺水腫を発症させる一つの引金的な役目を果たした」との判断は、原告らの前記の主張が肯定される可能性のあることを示すけれども、他の要因、例えば後記認定の悪性過高熱が肺水腫の発症原因であることを否定するに足りるものではない。

2  前記一2で認定したとおり、浩一が入院してから死亡するまでの間における総輸液量は三三〇六、総輸血量は一四〇〇であり、このうち肺水腫発症までに投与された量は、輸液一〇四〇(手術開始前五〇〇)、輸血一四〇〇(いずれも手術開始後)である。

長野鑑定は、浩一に対する輸液・輸血量につき、入院から死亡までの間の総輸液量三〇〇〇、手術中の輸血量一二〇〇を前提条件として、輸液・輸血が過剰であったために循環不全となり肺水腫を発症したとは考えられないとの結論を示している。すなわち、輸液については、総輸液量三〇〇〇の大部分が手術中に静注されていたとしても、手術当日は全身麻酔のため午前中禁食で水分が与えられていないから、五六キログラムの患者にとって適当な輸液量であり、決して過量なものではないとし、輸血については、大腿骨骨折に伴い約五〇〇の出血が局所に生じて血腫となっており、これに加えて手術操作により五〇〇以上の出血が予測され、手術に伴う出血量に応じて輸血が行われるのが普通であるから、結局一〇〇〇の出血に術後の出血が加わって総出血量となるところ、これを輸血で全量補わなくても出血性ショックに陥ることはないが、本件手術のように一二〇〇の輸血を行うことは一向差し支えなく、循環系に対し負荷ともならないとする。したがって、右鑑定の前提条件に比し輸液量が約三〇〇、輸血量が二〇〇増加したことによっては、長野鑑定の鑑定結果を左右する虞はないというべきである。

また、《証拠省略》によれば、手術前の輸液量が五〇〇であれば問題はなく、手術開始から心停止までの輸血量としては一二〇〇から一三〇〇が適量であり、輸液は三〇〇から四〇〇くらいならよく、心停止から肺水腫発症までの輸液・輸血も七四六くらいなら問題はないというのであり、これによっても前認定の本件手術の際の輸液・輸血の量が過剰であったとすることはできない。したがって、過剰輸液・輸血を肺水腫発症の原因と認定することはできない。

3  浩一死亡後一時間を経過した昭和五三年三月一一日三時一五分ころの直腸温が四二度であったことは、当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば、死後の体温の下降は一時間につき〇・五度ないし一度程度であることが認められる。そうすると、浩一の死亡時における体温は四二・五度ないし四三度であったと推認するのが相当である。そして、右証言及び尋問結果によれば、本件手術において体温の上昇をもたらす要因としては、脂肪栓塞、筋の挫滅、気管支炎、術後の吸収熱等が考えられるが、いずれにしても四〇度を超える高熱を発する可能性は低く、また、これらが競合したと仮定しても四二度ないし四三度にまで上昇するとの医学上の証明も見当たらない。

してみると、原告ら主張の各事実をもってしては、浩一が死亡時において四二・五度ないし四三度の高熱を出していたことの説明がつかず、他の要素が肺水腫発症の原因となった可能性を否定するのは困難であるといわざるを得ない。

4  以上1ないし3で検討したところによれば、原告らが請求原因3(一)において主張する事実を浩一の肺水腫発症の原因として特定することについては、多分に疑問があるといわざるを得ず、被告の主張を含む他の要因についての検討を欠くことができない。

三  被告は、浩一の肺水腫の発症原因は悪性過高熱であると主張するので検討する。

1  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  悪性過高熱(日本医学会の用語の変更により、現在では「悪性高熱症」と呼ばれている。)とは、麻酔中又は麻酔後に異常な高体温を発生する家族性の筋の代謝異常症であるとか、麻酔薬、麻酔補助薬などによって発症する症候群であり、筋強直と発熱とによって、(1)筋強直と高熱をきたすもの、(2)高熱を発するが明らかな筋強直を認めないもの(以上が真性)、(3)筋強直とポートワイン様の赤褐色尿(ミオグロビン尿)を認めるが発熱は軽度のもの、(4)発熱は軽度で明らかな筋強直とポートワイン様の赤褐色尿を認めないもの(以上亜型)とに分類される、などと定義されている。

その発生率については、一万四〇〇〇例に一例とか、七〇〇〇例に一例とかいわれ極めて低い一方、予後は極めて悪く、死亡率は六〇ないし八〇パーセントとか、六四ないし七八パーセントとか、六八・四パーセントとか報告されている。但し、近時の論文(盛生・悪性高熱症。昭和六〇年七月)によれば、ダントロレンの導入と早期発見・早期治療によって、我が国での死亡率は急速に低下しつつあるとの報告もある。

(二)  悪性過高熱の発生原因は未だ解明されていない。骨格筋の異常が注目され、他に神経原性、内分泌性あるいは全身的膜異常などが疑われているが、研究途上である。

(三)  悪性過高熱の治療法は、原因が不明のため対症療法に限られている。以下が一般的な治療法である。

(1) 吸入麻酔薬及び筋弛緩薬の投与中止及び手術の中止。

(2) 一〇〇パーセント酸素で過換気を行う。

(3) 冷却。クーリングマット、氷のう、氷水、アルコールガーゼで全身を覆い扇風機をも使用するなどして、強力に冷却する。場合によっては、氷水浴も必要である。更には、冷却のための浣腸、胃内冷却、膀胱洗浄を行う。時には部分的人工心肺を使用することも考えなければならない。輸液も冷却したものを投与する。体温が三八度程度に下がれば、一応冷却を中止して経過を観察し、再び体温上昇が始まれば冷却操作を再開する。

(4) 薬物療法。ダントロレン、メイロン、レギュラーインシュリン、ブドウ糖、ステロイドホルモン、利尿剤(ラシックスなど)、ブロカインアミド塩酸塩(アミサリン)等を症状に応じて投与する。

(四)  ある患者に悪性過高熱が発症するかどうかを術前に予知することは、現在のところできない。以下の点を参考としうる程度である。

(1) 家族歴に麻酔死、筋肉疾患患者があれば、悪性過高熱の可能性を考えて、より詳細な検査を行う。

(2) CPKの測定によって異常高値であれば、悪性過高熱の可能性をより強く疑う。但し、術前患者の約三〇パーセント以上にCPKの高値が見られたとする報告もあり、CPKの測定値のみに頼ることは危険である。

(3) 筋生検を行い、光顕・電顕検査、カフェイン・ハロセン等による筋収縮テスト等を行うこと。

(4) その他、結小板凝固機能検査等も試みられているが、臨床応用できる段階ではない。

(五)  悪性過高熱の認定基準ないし臨床症状については、研究者の間でも見解の分かれるところである。

(1) 森・悪性高熱症によれば、症状として次の(ア)ないし(キ)を挙げ、このうち(ア)、(イ)、(ウ)を三大主徴候として指摘する。

(ア)頻脈―全ての症例で最初に気付かれるのは異常な頻脈である。(イ)発熱―体温の上昇は極めて急速であり、通常一五分間に〇・五度以上といわれている。(ウ)アシドーシス―酸素消費量が安静時の一〇倍以上となり、その結果、呼吸性アシドーシスが現れる。病態の進行とともに代謝性アシドーシスも加わってくる。ソーダーライムの過熱と着色が著しい。(エ)筋強直―これについては三つに分類される。(a)一過性ミオグロビン尿症。この型のものは、サクシンの投与によって、筋弛緩ではなく逆に数分間持続する筋強直が生じ、開口困難のため気管内挿管ができなくなる。この型は、その後、尿がミオグロビンのため赤ブドウ酒色を呈する。麻酔を持続しても高熱を発生することはない。(b)筋強直型悪性高熱症。この型のものは、サクシン投与によって筋強直が生じ、その後筋強直は緩和しても、麻酔の経過と共に再び筋強直が発生し、高熱を生ずる。(c)非筋強直型悪性高熱症。高熱を発するが筋強直は全経過にわたって発生しない。(オ)出血傾向―時に著しい出血傾向が発生する。(カ)肺浮腫―二次的に発生することがある。(キ)神経系の障害。

(2) 盛生・悪性高熱症によれば、診断基準として、(ア)麻酔中四〇度以上の体温上昇、(イ)一五分間に〇・五度以上又は一時間に二度以上の体温上昇があり((ア)、(イ)未満の発熱は亜型)、かつ、以下のいくつかの症状を認めるものとされる。(a)筋強直(サクシン投与直後に発生するもの。麻酔経過中に発生するもの。麻酔終了後に発生するもの。)、(b)ミオグロビン尿(導尿しているとポートワイン様の赤褐色尿を認める。)、(c)原因不明の頻脈、血圧動揺、不整脈、(d)血液の暗赤色化、血液ガス分析により、代謝性アシドーシス、呼吸性アシドーシス、酸素分圧の低下、(e)LDH、GOT、GPT、CPK、クレアチン、ミオグロビン、K+上昇、(f)出血傾向、(g)麻酔覚醒遅延、筋痛、筋肉運動障害。

なお、前記乙第一二号証(菊地博達=盛生倫夫「悪性高熱症」外科治療四五巻五号、昭和五六年一一月刊)によれば、臨床症状として合併症も挙げられ、進行すると末梢は高度の低酸素状態となり、ショック状態に移行し、ショックの一般的症状が前面に現れてくるとされ、また、右(c)について、発熱が起こる以前の症状では、原因不明の頻脈、不整脈が見られ、特に脈拍は一六〇以上にもなり、更に不整脈が多発し、しばしば挿管操作の未熟さと解釈されることがあるが、吸入麻酔薬濃度を上げても過換気を行っても頻脈は治まらないことが多く、麻酔経過を見てみると、血圧の変動(初め高血圧、後に低血圧のことが多い。)に気付く、心停止を招来することも稀ではない、との指摘がある。

(3) ウイルソンの定義(昭和四二年)によれば、悪性過高熱は、(ア)術前は平熱で健康な患者(現在では、筋疾患のあるものも含む。)で、(イ)急激な体温上昇を示し、一五分間に〇・五六度以上の発熱があり、(ウ)又は体温が四一・一度以上に達し、(エ)他に明らかな高体温の原因がなく、(オ)死亡率が高く剖検で特別な所見がないこと、とされる。

(4) 文部省及び厚生省の悪性過高熱研究班の悪性過高熱の診断基準によれば、(ア)体温の急上昇(一五分間に〇・五度又は一時間に二度の上昇率)をきたすものと、(イ)体温の上昇は軽度であるものとがあり、それぞれに筋強直型と非筋強直型がある、としている。

2  本件手術において浩一に現れた症状について

前記の当事者間に争いのない本件手術の経過と、《証拠省略》を総合すれば、次の各事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  筋強直について

(1) 本件医師らは、本件手術に当たり、三月一〇日一三時四五分ころ、浩一に対し前投薬として硫酸アトロビン、ソセゴン及びアタラックスPを投与した後、ラボナール三〇〇ミリグラム、サクシン四〇ミリグラムを投与して気管内挿管を完了し、フローセン〇・五パーセント、酸素二・五リットル、笑気四リットルにて全身麻酔を開始した。この段階で筋強直は見られなかった。

(2) 引き続き、キュンチャーによる骨髄内固定手術の手順どおりに、骨折部分を大腿の外側で切開し筋肉を分け骨折部の骨片を露出する作業を進め、一四時五〇分ころ、患者骨片の整復後の具合を試すための骨を山形に合せて水平になるまで押しつける作業のため、サクシンを四〇ミリグラム注射したところ、サクシンの効きが悪く胸部が硬く調整呼吸のためのバッグフローを押しにくくなった。医師三代が聴診器をあて麻酔のチューブの位置を動かしたりしたが特に異常は認められなかった。約一〇分後にサクシン四〇ミリグラムを注射した。このとき足に強いファシキュレーションが起きた。その後、麻酔終了までないし麻酔終了後死亡に至るまでの間に筋強直と考えられる症状は生じていない。

(3) そこで、右のサクシンの効きが悪く胸が硬くなった点ないしは足に強いファシキュレーションが起きた点を筋強直といいうるかであるが、サクシンの効きは個体差によるばらつきが見られること、大腿骨の手術でサクシン三アンプルを使うことは必ずしも稀ではないこと、一般にサクシン投与後は個体により強弱の差異があるがファシキュレーションが見られること、手術助手の医師長谷部は特に強直を感じなかったこと、足に筋強直が起きたとすれば手術の続行は不可能となるのが通常と考えられるところ以後も手術を続行し終了していることなどが認められ、右事実からすると筋強直としての典型的症状は見られなかったものといえよう。

しかし、前記1の冒頭掲記の各証拠(殊に乙第一二号証)によれば、悪性過高熱の症状としての筋強直としては、サクシン投与後ファシキュレーションが異常に強く現れることも挙げられており、浩一についてこの意味における筋強直が出現したことは明らかである。

(二)  体温の上昇について。

(1) 浩一死亡後一時間を経過した昭和五三年三月一一日三時一五分ころの同人の直腸温が四二度であったことは、当事者間に争いがなく、浩一死亡時である同日二時一五分ころの体温が四二・五度ないし四三度であったと推認されることは、前記のとおりである。そして、筋の非常に強い痙攣性の疾患や感染症などの場合には死亡後に体温が上昇する可能性もあるといわれているが、浩一には右の症状が認められないので、死亡後熱が上がった可能性は考慮する必要はないと認める。

(2) ところで、手術開始時の浩一の体温は三七・一度ないし三七・二度であった。そして、一五時四〇分の麻酔・手術の再開後キュンチャーを骨髄内に挿入する作業を行ったころから、医師昭信及び同三代らにおいて浩一の体温上昇傾向を感じだし、手術終了ころ(一七時〇〇分)には明白にこれを感知した。更に、本件医師らが肺水腫発症と判断した一七時三〇分ころには、医師長谷部も明確に浩一の高体温を感知したし、医師昭信はソーダーライムのキャニスターが熱くなっているのを発見している。

(3) 以上の事実によれば、浩一の体温は手術開始後しばらくの間は手術開始時点の体温三七度程度であったが、キュンチャー挿入後の一六時過ぎころから(キュンチャー挿入には一五分ないし二〇分を要している。)体温の上昇が始まったことが推認できる。しかし、体温が四二・五度ないし四三度にまで上昇したのが、いつの時点であったかは不明である。ただ、一七時三〇分には本件医師ら全員が浩一の高体温を感知していたこと、ソーダーライムのキャンスターが熱くなっていたこと等から、遅くとも同時刻ころには既に四〇度を超える発熱があったものと推認することができる。

(三)  アシドーシスないしソーダーライムの変色について

(1) 一七時〇〇分ころ手術を終了し、麻酔のフローセン及び笑気を零にして一〇〇パーセント酸素で換気に入った。一七時三〇分ころ、麻酔を覚醒している間に、排痰が多くなり痰が黄色の胆汁様の泡を含んだ粘りのあるものに変化した。このころ本件医師らは肺水腫と判断しているが、ほぼ同じころ、医師昭信によってソーダーライムが熱く下から五ないし六センチメートルのところで紫色に変色しているのが確認された。本件医師らは肺水腫に対応するため血液のガス分析を行い、同時にレスビュレーター(人工呼吸器)を使用してピープ(呼気終末陽圧呼吸)を行った。ガス分析の結果によれば、一七時四〇分のものがPH七・三九八、PO2四三、PCO2四二・九であり、一八時〇〇分のものがPH七・四二一、PO2四六、PCO2四二・三である外、時刻不明のもの(PH七・四〇三、PO2四二・三、PCO2四二・七のもの、PH七・四六九、PO2六三、PCO2三九・七のもの、PH七・四二三、PO2六五、PCO2三四・一のもの)がある。三月一一日一時〇〇分ころには、アシドーシスを排斥するためメイロンの投与を行っている。

(2) 以上の事実のうち、ソーダーライムの変色・過熱は、炭酸ガスの産出が多くアシドーシスが現れたことを示していると考えられる。他方、血液ガス分析の結果は、低酸素状態であることは明らかであるが、顕著な呼吸性アシドーシス、代謝性アシドーシスを示しているとはいえない。ただ、右血液ガス分析の時間も定かでなく、一〇〇パーセント酸素にする前と後との違いの影響も考えられるし、炭酸ガス分圧と酸素分圧が逆転していくのが予後不良の場合の特徴であり代謝性アシドーシスはこのような場合には当然出ている旨の証人長谷部正晴の証言に照らすと、少なくとも手術終了時点ないし肺水腫発症と判断された時点では、ソーダーライムの変色及びアシドーシスの現出が見られたものと推認することができる。

(四)  頻脈について

一五時一〇分心停止(ショック状態)発生後、一五時一二分に心拍が再開したが、その後の一五時三〇分には脈拍数一二〇と頻脈傾向を示し始めた。一五時四〇分の麻酔・手術の再開後は、脈拍は一二〇ないし一八〇にまで至り、明らかに頻脈となる。その後アミサリン等を投与するも頻脈は改善されなかった。右のとおり、浩一が頻脈であったことは明らかである。

(五)  ミオグロビン尿について

医師昭信は、手術終了直前に暗赤色の尿が出ていた旨を供述している。しかし、他の医師らは右のような記憶を有していないのであり、また、浩一死亡当日一二時五七分から開始された解剖の所見に「膀胱内には黄色混濁尿少許を存し」とされていること等から、医師昭信の前記供述部分はにわかに措信し難く、浩一にミオグロビン尿が認められたかどうかは証拠上明確ではない。

(六)  手術前の血清CPKの値について

術前に浩一から採血した検体により江東微生物研究所でCPKの値を調べたところ二五二であった。

3  悪性過高熱の発症の有無

(一)  長野鑑定は次のようにいう。

(1) 本件においては、次の(イ)ないし(ヘ)が認められた。

(イ) サクシン静注後、異常な筋強直がみられた。

(ロ) 術中体温上昇が認められ、これが継続した。死亡一時間後の体温は四二度であった。

(ハ) ソーダーライムが短時間で変色し、炭酸ガス産生が多いことが示唆され、アシドーシスが認められた。

(ニ) 術中頻脈(一二〇ないし一八〇)が持続した。

(ホ) 心停止後の尿はミオグロビン尿と考えられるワイン赤色を呈していた。

(ヘ) 術前血中CPKが高値を示していた。

(2) 右各事実のうち(イ)(ロ)(ハ)があれば悪性高熱と判断して差し支えなく、他の事実の存在をも考慮すれば悪性高熱が合併して発症したことが十分推察できる。麻酔中急性心停止を起こす原因は多数あるが、本件においては悪性高熱による心停止と考えられる。

(3) 急性肺水腫の原因として、剖検により肺脂肪栓塞が認められていることから、これに起因する間質の肺水腫であると考えることもできないではないが、高度の典型的肺水腫である点から、悪性高熱の末期にみられる肺水腫と考える方が妥当である。

(二)  右長野鑑定の前提事実のうち、(1)(ホ)(ミオグロビン尿)が必ずしも認められないこと及び(1)(イ)(筋強直)についても典型的な足の硬直のような筋強直が見られなかったことは、前認定のとおりである。しかし、悪性過高熱の症状として問題にされている筋強直には、浩一の足に見られたような強いファシキュレーションをも含むと解されているばかりでなく、前記のとおり、そもそも悪性過高熱には筋強直の出現する場合と出現しない場合とがあることが認められているのであり、また、ミオグロビン尿についても、筋強直型とは強く結びつく(筋肉細胞の崩壊により大量のミオグロビンが尿中に排出される。)が非筋強直型とは必ずしも結びつかないことが認められるので、長野鑑定の前提事実中に右指摘の二点が問題となりうるとしても、同鑑定の結論には全く影響がないというべきである。

(三)  また、長野鑑定以外においても、前記1(五)に掲げた悪性過高熱の認定基準ないし臨床症状についての諸見解と、前記2の浩一の症状とを対比することによっても、その間に極めて高い類似性を認めることができる。

(四)  してみると、本件においては、浩一につき、手術中に悪性過高熱が発症したと推認するのが相当であり、手術中に発生した心停止及び肺水腫は、長野鑑定のとおり、悪性過高熱によりもたらされたものと判断するのが相当である。

四  そこで、本件医師らに過失があるか否かについて判断する。

1  本件手術の経過の概要は、既に認定したとおりであるが、浩一の異常を発見した後に本件医師らのとった措置について見てみるに、《証拠省略》を総合すれば、次の各事実が認められる。

(一)  一五時一〇分ころ、大腿骨の中枢骨片をボーリングして一一ミリメートルまで拡げ終ったところ、医師三代において突然浩一の脈及び血圧が触れず顔色も悪い状態(心停止ないしショック状態)になったのを発見したので、本件医師らは直ちに手術を中断し、フローセン、笑気を停止し、一〇〇パーセント酸素を一分間六リットル流入した。一方で、心臓マッサージの準備をしながら医師昭信が浩一の胸をトントンと叩いたところ心拍が再開した。その間は約一、二分であった。心電図で心拍を確認し、ショック後の代謝性アシドーシスを防止するためメイロンを投与し、また、副腎皮質ホルモンプレゾリンを投与した。

その後、二〇分から三〇分ほど手術を中断したまま様子を見た。その間、医師昭信は、ショックの原因としては出血ないし酸素の欠乏が考えられることから、血算を指示した。血算の結果は赤血球五三一万、ヘマトクリット四三・七パーセントで脱血症状は起きていないことを確認した。そうするうち、血圧が一二〇/七〇に回復したが、心拍数は一二〇と頻脈傾向であった。心不全に対する措置として強心剤セシラニット、利尿剤ラシックスを注射した。

(二)  一五時四〇分ころ、本件医師らは、ショック状態の原因はサクシンによる不整脈、徐脈ではないかとの判断の下に、協議のうえ手術の続行を決定した。続行を決定した理由は、既に骨髄を一一ミリメートルまでボーリングしてあったので、一一ミリメートル程度のキンチュアを打ち込んで手術を完了させても、手術を中止して縫合するのと比較して時間の上で大差がないこと、中止したとしても、それまでの手術で人工的に開放骨折を作ったことになるので長期間をおいて創が治ってから再手術をする必要が生じること、浩一の血圧が正常値を示し顔色及び血液の色も特に異常が認められなかったことである。

手術の続行に当たり、心臓に負担をかけないため、輸液・輸血は血管確保に留め、麻酔はフローセン〇・五パーセント、酸素三リットル、笑気三リットルと酸素濃度を上げ、筋弛緩剤の使用は止めた。

(三)  一七時三〇分ころ、肺水腫発症と判断して以降は、レスピュレーターを使用してビープを行い、プレゾリン、セシラニッド、ラシックス、ソルコーテフ、カルニゲン、ネオシネジン、メイロン、ニコリン、アミサリン、イノバン、ノルアドレナリン、アルビアチン等を投与している。

2  原告らは、請求原因4(一)において、本件医師らに(1)ないし(6)の内容の過失があると主張するのであるが、右はいずれも浩一の肺水腫の発症原因が前認定の悪性過高熱ではないことを前提とするものである限り、既に失当であることが明らかであるけれども、事の性質上、悪性過高熱かどうかとは異なった次元での過失の主張も含まれている可能性があるので、念のため右についても判断を加える。

(一)  心停止原因究明義務違反について

右1(一)及び(二)に見たとおり、本件医師らは手術を中断してショックの原因として考えうる出血ないし酸素の欠乏につき血算等を行うことによって確認し、原因の究明に努力している。出血性でないことを確認した後、サクシンによる不整脈、徐脈ではないかとの判断に至っているが、心停止(ショック状態)の時間がわずか一、二分であったことから、右判断に至る過程に過失は認められない。心停止の原因が悪性過高熱であることを発見できなかった点に過失があるといえないことは、後記のとおりである。

(二)  麻酔・手術打切り義務違反について

本件医師らが麻酔・手術の続行を決定した理由は、前記1(二)のとおりであるが、鑑定人泉田重雄の鑑定の結果及び前記長野鑑定のとおり、右の措置に過失があるとすることはできない。

(三)  体温測定義務違反について

《証拠省略》によれば、本件手術のような場合は温度計による体温の測定は行わないのが通常の方法であることが認められ、この点においても本件医師らに過失があるとは認められない。また、悪性過高熱であることを予見して体温測定を行うことまでをも求め得ないことは、後記のとおりである。

(四)  冷却措置義務違反について

手術中に体温上昇が生じた場合に体温を下降させるため冷却措置を講ずべきであることは、《証拠省略》により認めることができる。

しかし、《証拠省略》によれば、本件のような温度上昇が急激であり、かつ四二・五度ないし四三度と高温に達しているような場合は、表面冷却の方法は殆ど無効であることが推認されるうえ、手術中又は手術直後の患者の状態に鑑み選択しうる冷却方法も限られ、また、人工心肺による補助循環で冷却する方法のような強力な冷却措置は有効であろうが、被告の浜野病院にかような設備があったとの立証がない本件においては、本件医師らがこれを使用しなかったことに過失を認めることはできない。

そして、本件において右のような異常で急激な体温上昇をもたらしたのは悪性過高熱であったのであり、本件医師らにこれを認識して冷却措置を講ずべきであったと要求するのが無理であったことも、後記のとおりである。

(五)  手術中の急速輸液・輸血回避義務違反及び心停止後における同様の義務違反の主張について

本件手術に関して、輸液・輸血が適切に行われたと認められることは、前記二2に認定したとおりであり、この点においても本件医師らに過失はない。

3  次に、請求原因4(二)の主張(悪性過高熱に対する適切治療義務違反)について検討する。

(一)  前記三3のとおり、本件手術中に発生した心停止及び肺水腫は悪性過高熱が原因であったと推認されるところ、悪性過高熱の診断方法、治療方法については、前記三1(三)及び(五)のとおりである。

(二)  そこで、本件医師らに悪性過高熱の予見可能性があったかどうかについて判断する。

(1) 《証拠省略》によれば、被告経営の浜野病院は、本件医療事故当時、ベッド数四四床の外科病院(胃腸科、内科、耳鼻科等も併設されていた。)で、常勤医三名と非常勤医一〇名近くが勤務しており、主として交通事故に基づく外傷の治療を引き受け、救急指定病院となっていた。

被告代表者である医師昭信は、昭和三一年に医師資格を取得した外科医で、大学の非常勤講師等の経歴があり、浜野病院の常勤医であって、本件手術の執刀医であった。

医師三代は、耳鼻科を専門とする常勤医であったが、全身麻酔の経験が比較的豊かで約一〇〇〇例に立ち会っており、昭和五三年八月二九日には診療科名としての麻酔科を標榜することが許可されている。本件手術に際しては、主として麻酔管理を担当した。

医師長谷部は、昭和四八年に大学医学部を卒業し、一般外科を専門とし、大学医学部の助手を勤める傍ら、浜野病院に非常勤医として勤務し、本件手術に際して医師昭信の助手を担当した。

しかし、本件医師らは、いずれも、本件手術当時においては、悪性過高熱についての医学知識を殆ど持っておらず、本件手術によって悪性過高熱が発症しうるとの予測を持たず、浩一に生じた心停止及び肺水腫が悪性過高熱を原因とするものであったとの認識も全く持たなかったと認められる。

(2) ところで、《証拠省略》によれば、我が国において、昭和四三年ころから「麻酔」誌に「サクシン使用による筋強直例の経験」とか、「全身麻酔中に発生せる突発性高体温症について」とか、「悪性過高熱の三例について」とかの題目で悪性過高熱の症例が報告されているほか、昭和五二年一二月に「麻酔と蘇生」誌記念号別冊として「悪性高熱研究の進歩」(第一回悪性高熱研究会シンポジウム記録)が出されたことを認めることができるが、そのころまでは、概して、悪性過高熱の研究は特定の研究者の間で個々に行われているに止まり広い範囲での情報交換の場が殆どなかった。世界においても、昭和四六年に第一回の、同五二年に第二回の、悪性過高熱に関するシンポジウムがもたれたものの、未だその原因も解明されないばかりか診断法も分っていない状況であった。このように、本件手術の行われた昭和五三年当時においては、悪性過高熱についての研究は、一般医師に周知されるには至っていなかったと認められる。

現時点において、悪性過高熱についての研究が相当程度に発達し、治療法も進歩した(したがって、死亡率も低下している。)ものの、未だその発生原因が解明されておらず、発生の予測も不可能であることは、前記(三1(一)、(二)及び(四))のとおりであるが、例えば、昭和五六年一一月出版の前記菊地博達=盛生倫夫「悪性高熱症」においても、「この疾患は発生率が低いため、一般の医師にとっては未だなじみが薄いようである」との指摘があり、また昭和六〇年の出版である盛生・悪性高熱症でも、「本症に対する一般医師の認識も充分とはいえない」と指摘されている。

更に、長野鑑定によっても、昭和五三年三月当時の我が国における臨床医及び麻酔に専従していない麻酔標榜医において悪性過高熱に対する認識は十分ではなかったことが認められる。

(3) したがって、本件医療事故当時、医師三代をはじめ本件医師らが悪性過高熱に関する知識を欠いていたことは前認定のとおりであるが、その発症を予測し得なかった点は現時点での医療水準によっても克服されていないところであるし、その診断基準及び治療方法についての知識は、当時における一般の医師らのレベルでは、未だこれを習得し得なかったものと認めるのが相当であり、麻酔に専従していない麻酔標榜医(医師三代は、厳密には、当時まだその許可を得ていなかった。)についても同様であったと認められ、ひっきょう、本件医師らには悪性過高熱を予見する可能性がなかったといわざるを得ない。

(三)  そうすると、その余の点について判断するまでもなく、本件医師らが悪性過高熱に対する知識を欠き、これに対する適切な治療を行わなかった点において医師としての義務違反があった旨の原告らの主張は、失当という外はない。

五  以上のとおりで、原告らの本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 増山宏 鈴木信行 裁判長裁判官友納治夫は転補につき署名捺印することができない。裁判官 増山宏)

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